松ちゃん’sおぴにおん



 不条理な死

 またも組織によって「真理」が犠牲となった。企業のうたう「安全」はもはや神話でさえない。JR福知山線の脱線事故で報告書の漏えいが明らかとなり、事故調査の中立性が改めて問われている。

 9年前の営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線脱線事故が脳裏をよぎる。死亡した5人のうちの1人は、若くして長老に選ばれた同じ教派の敬愛する兄弟だった。突然の別れに、教会の葬儀へ駆けつけた多くの友人・知人らも悲嘆と動揺を隠せなかった。当時の営団総裁は同じキリスト者として、教会発行の追悼文集に寄稿し、故人や遺族の信仰をたたえた。他方、事故後の営団側の対応に不満と憤りを覚えたある遺族は、慰霊碑への記銘すら拒否し続けている。

 この世のどんな悲劇も「神のご計画」であることに変わりはないが、人命軽視、利潤・効率最優先の市場主義社会のもと、政官財の癒着、天下りの構図や大企業の無責任体質を不問に付すことが、果たして信仰者に求められる姿勢なのだろうか。

 「空の安全」を求め、信念を貫く主人公の戦いを描いた映画「沈まぬ太陽
」(山崎豊子原作)が、今月公開される。
不条理な死、人間の「罪」から生まれる巨悪を前に、わたしたちはどこに立つべきか。

2009.10.10 キリスト新聞「望楼」



 教師と牧師

 毎年夏、全国のキリスト教学校関係者が集う人権教育セミナー(全国キリスト教学校人権教育研究協議会主催)が開かれている。先日行われた「プレセミナー」では、教員有志の研究会から発足させた「校内相談室」や子どもたちの「居場所」となっている保健室からの報告に、参加した教員らが耳を傾けた。特に印象に残ったのは、「一番必要なのは担任支援」という言葉。生徒や親から寄せられる相談の9割は、担任に余裕さえあれば、さまざまなプロセスを経て解決できる問題だという。教師の「孤立化」が休職や退職の大きな原因になっているとの指摘も。

 聞きながら、牧師にも通じる話だと思った。卒業と同時にセンセイと呼ばれ、集団・組織の長としての重責を担う。真面目な人ほど多岐にわたる業務と押し寄せる要望、相談を抱え込み、心を病んで辞めていくという構図も然り。ひところ話題になったモンスターペアレントは、さしずめモンスターシント(信徒)といったところだろうか。セミナーで発表した2人の教員が共通して挙げたのは、「門衛から事務職員に至るまで」校内で連携することの重要性。果たして、教会はどうか。

 20回目を迎える今年の人権教育セミナーは8月6日から3日間、女子学院、在日本韓国YMCAを会場に行われる。

2009.6.13 キリスト新聞「望楼」



 「ショック」な「サンデー」?

 受験業界には「サンデーショック」という言葉がある。東京・神奈川の私立中学入試が集中する2月1日が日曜日の場合、キリスト教主義学校が試験日をずらす傾向にあるため、併願パターンが例年と異なり、志願者数が大幅に変動する。受験生は合格ラインをどう予測するか、学校側は合格枠をどう設定するかで頭を悩ませるのだという。今年は、その数年に一度訪れる「ショック」の年。女子学院、東洋英和女学院、立教女学院、フェリス女学院などの女子校が試験日を2日に変更し、併願が可能となった難関・名門校では、志願者が例年より4〜5割も増えた。

 他方、願書を出す日は「仏滅」を避けるという理由から、出願初日が「仏滅」にあたる年は、例年に比べて2日目以降の出願が大幅に増えるとの話もある。キリスト教主義学校を受験する親子が、湯島天神で合格祈願したなどというニュースに至っては、何とも日本的≠ナ奇妙としか言いようがない。祈られた「学業の神さま」は、果たしてどう応えるのだろう。

 首都圏の6人に1人
が中学受験をするという時代。教育とは、学校とは、「建学の精神」とは、安息日とは――。もっと本質的議論がされるべきではないか。

2009.3.21 キリスト新聞「望楼」



 期待と批判

 「宗教団体が行う社会貢献活動に対する認知度は約4割」との調査結果が、昨年11月に発表された。財団法人庭野平和財団(庭野日鑛総裁)が全国の20歳以上の男女4千人を対象に個別面接で調査したもの(有効回答数1233人)。宗教団体に期待する社会貢献活動を問う項目では、「平和の増進に関する活動」が最も多い(34・4%)反面、「期待する活動はない」との回答も3割を超えた。報告書は、「最低限こうした事実を認知しておくことが、宗教団体およびその関連団体の公益性が問われるなかで必要ではないだろうか」と指摘する。

 米カトリック教会が聖職者の性的虐待で巨額の賠償金を支払ったことは記憶に新しい。ドイツにおける信徒の教会離れにも、聖職者による性犯罪の増加とそれに伴う教会への信頼失墜が少なからず影響しているという。他方、首都ベルリンでは公立学校における宗教科の義務化を求める署名運動が展開されており、「宗教への期待感が依然高いことを物語っている」との見方もある。

 国内でも相次ぐ不祥事。海外の教会が直面する危機的状況が、日本の将来の姿とならないことを願わずにはいられない。教会は、社会の期待と批判にど
う応えるのか。

2009.2.14 キリスト新聞「望楼」



 二つの訃報

 国内外の報道が「五輪熱」に浮かされていた今年8月、一つの訃報が流れた。1994年の松本サリン事件で被害にあい、14年余り意識不明の状態が続いていた河野澄子さん=享年60歳。家族の献身的な介護を受けながら、ついに意識が回復することはなかった。

 第一通報者である夫の義行さんが家宅捜索を受け、警察、メディアがこぞって犯人視するなか、いち早く家族の支えになったのは日本基督教団松本教会の牧師(当時)だった。その後も、同教会では「事件を忘れないためのコンサート」が開かれた。

 同じカルト教団による弁護士一家殺害事件で、キャスターとして出演していた自局の過誤を糾弾し、「TBSは死んだ」と発言した筑紫哲也さん=享年73歳=は、11月に逝去した。彼は最後に出演した「NEWS23」で、自身が目指してきた姿勢についてこう述べた。「とかく一つの方向に流れやすいこの国の中で……、少数派であることを恐れないこと、多様な意見や立場をなるだけ登場させることで、この社会に自由の気風を保つこと」

 「少数派」であるキリスト教界の数少ない「新聞」メディアとして、何をどう伝えるべきか。襟を正される二つの訃報であった。


2008.12.25 キリスト新聞「望楼」



 センセイたちの世襲

  このほど発足した麻生新内閣の閣僚は、18人中11人が親または親族に国会議員をもつ「世襲議員」だ。そもそも、自民党衆院議員の世襲率は5割以上。まともな政策もないまま「地盤(支援団体)、看板(知名度)、カバン(資金)」の威光で世襲候補が当選し、「新規参入」が妨げられていると指摘する声もある。

 ラップやヒップホップ人気の火付け役として活躍し、昨年デビュー10周年を果たしたDragonAshのボーカル降谷建志は、俳優・古谷一行の息子でありながら「親の七光りに頼らず評価されたい」との思いから、大成するまでその事実を隠し続けたという。「降谷」という芸名にも、そんな姿勢が表れている。

 牧師の世襲率調査などないだろうが、結果はかなりの高率が予想される。無論、世襲をすべて否定するわけではない。神に仕える親の姿を見て育ち、自らもその道を歩もうという志は尊い。理想的な信仰の継承が成されていると喜ぶべきかもしれない。しかし、他の世界を見聞することなく親の職を継ぐ幸いに与った者には、少なくとも「井の中の蛙」になりがちだという自覚が必要だ。教会外では通用しない「常識」などいくらでもある。政治も宗教も「お家芸」ではないのだ。


2008.10.18 キリスト新聞「望楼」



 他の選択ではダメですか?

 本誌10月3日号の大村アスカ氏による政治時評「変わら(れ)ない麻生自民か/変わりたいのに変われない小沢民主か」にひと言。自民党が「学習しない」党であることも、民主党が「変わった、とはいえない」こともまったく同感である。

 しかし、だからこそ最後の段「有権者は、来る総選挙でどちらかを選ばなければならない」には非常に違和感を抱いた。

 一般メディアによる「自民か?民主か?」といった「二者択一」的な世論誘導は今に始まったことではないが、選挙が近付くにつれその傾向には一段と拍車がかかる。天下のNHKでさえ、「野党の反応」として民主党のコメントのみを報道することも少なくない。まるで日本には2つの政党しか存在しないかのような取り上げ方である。個人的にはこの「変われない」党の動向、特に地方議会における与党べったりの体たらくぶりを見るにつけ、もはや「野党」だとすら認識していない。

 「二大政党制」の危険性や小沢民主の脆弱性については、これまでも本誌誌上でたびたび取り上げられてきたはずである。同号で渡辺治氏が指摘しているように、たとえ民主党中心政権ができたとしても、単独で過半数を獲得できるかどうかで事態は大きく異なる。少なくとも私は、大村氏の言う「究極の選択」になど乗ろうとは思わない。

2008.10.17 週刊金曜日 723号 投書



 子どもの興味に寄りそって

 もうすぐ2歳半を迎える息子は、大の乗り物好き。「ぶっぶ」や「ぴっぽー」に始まり、バス、タクシー、電車と次第にその守備範囲を拡大。最近では常磐線や埼京線など、路線の種類まで区別できるようになってきた。

 子どもの興味とは不思議なもので、自分自身をふり返っても、幼い頃から今に至るまで乗り物に関心を持っていた記憶はまったくない。恥ずかしながら、いまだに自動車のメーカーや車種などは数えるぐらいしか知らない。妻もしかり。なのに何故? 別段そういう環境だったわけでもないし、教えたわけでもない。まして勧めたわけでもないのに――。

 ともあれ、何がそんなに彼を惹きつけているのか、わが子ながらその深層心理には興味がわく。未知の世界に踏み入る楽しみもなくはない。そしてたどり着いた結論は、「好きでもないものを無理やり教え込もうとしても無駄」ということ。「勉強ができるようになってほしい」「野球が好きな子になってほしい」……は、しょせん親のエゴ。

 しかし、いささか心配でもある。このままどんどんマニアック度を増し、カメラ片手に駅のホームを駆けめぐるようになるのでは? 全国の鉄道を制覇するべく、地図を片手に連れ回されるハメになるのでは? などなど。保育園の先生には「男の子はみんなそうですよ〜」などと慰められたりするが、果たして気休めなのか真実なのか。他の子たちの様子を見てみると、虫好き、動物好き、アンパンマン好きと、すでにそれぞれ幼児なりに好みが分かれている。やっぱりこんなに熱を上げているのはうちだけ?

 わが家では、なるべく「質の良い」おもちゃや絵本を、最小限選んで買うようにしている。やたら音や光が出る最近のおもちゃはあまり買う気がしない。遊ぼうと思えば保育園にたくさんあるし、何より買い始めたら切りがない。しかし、先日遂にせがまれて電車の模型を買ってしまった。レールだけは買うまいと心に決めているのだが、果たしていつまで続くやら……。

 いずれ「卒業」するとは思いつつ、子どもの興味に寄りそって、一緒に成長を楽しもうと思う今日この頃。

2006.10.27



 修養会に見る青年部の現実

  2006年の青年部修養会は浦和教会を含む北関東の教会が担当の年で、私は準備委員の一人として参加した。修養会の計画・運営を行う準備委員の任は、中会の諸教会が地域別に2年交替で担っている。

 今回の主題は、「現代・生きる・キリスト者」。講師にE先生、J先生をお迎えして、2日間にわたる講演(問題提起)と分団協議を行った。主題については準備の段階から、「漠然としている」「テーマが広がり過ぎるのでは」との懸念もあったが、準備委員内の茫漠とした問題意識をそのまま反映させようとの意図もあり、あえて絞り込むことを避けた。

 両者による講演はそれぞれに、準備委員の意図を前向きにくみ取ってくださり、独自の視点から問題を提起するという意味で、非常に示唆に富むお話だった。しかし案の定、修養会全体としては、一貫性のないまとまりに欠けるものになったと言わざるを得ない。同じテーマに基づいた豊かな内容の講演ではありながら、分団の司会を担った準備委員の側が、その連関性、議論の方向性をほとんどつかめないままに進行してしまった感がある。終了後のアンケートでは、「それぞれが、多岐に渡る各論の中からそれぞれの課題を持ち帰ることができた」という好意的なものが多かったが……。

 また、時間的余裕の無さや、委員の不手際などもあり、結果的に、修養会の会計担当長老に多大な負担をおかけしてしまった。青年主役の修養会であるはずなのに、非常にお恥ずかしい事態である。しかし、残念ながらそれが現在の青年部(会)の現実なのかもしれない。

 本稿は、準備委員の反省点を列挙するのが主旨ではないが、あえて書かせていただくならば、やはり計画性の無さ、会議運営の非効率性は指摘しなければならない。教会内の諸業務が必ずしも効率を優先すべきものでないことは確かだが、「奉仕」や「愛」の名のもとに非合理を是とする風潮には、これまでも違和感を覚えてきた。できる限り無駄を削り、教会の働きをより有効に、かつ円滑にするためには、教会の「伝統」にはない手法を取り入れることに躊躇は要らない。無論、深めるべき点は徹底して時間と労力をかけるべきであることは言うまでもない。まさに、「変えるべきものを変える勇気と、変えることのできないものを受け入れる冷静さ」「そして、変えるべきものと変えることのできないものを識別する知恵」(ニーバーの詩)である。

 今回の修養会では、初の試みとしてベビーシッターを依頼し、子連れの家族も参加できる機会を設けた(大役をお引き受けいただいたO姉には、この場を借りて心より感謝申し上げます)。例年になく参加者が少なかったこともあり、この託児制度を利用したのは3家族に留まったが、今後こうしたシステムがより定着し、子育て中の若い親たちが気兼ねなく参加できるようになってほしい。

 私事であるが、今年度からキリスト新聞社という、キリスト教ジャーナリズムの一端を担う職場に身を置くようになったこともあり、教勢の低迷を憂う声ばかり耳にする。しかし、青年を教会に招き、かつ訓練し、育てようという姿勢や体制が教会で整えられてきたか。自戒の意味も込め、そのことへの反省と改善策が求められているように思えてならない。

 今さら「青年が少ない」ことを嘆く必要はない。少ないのは何も青年に限ったことではない。少ないからこそできる新たな教会の取り組み、修養会のあり方を模索していく必要がある。そうした過程で初めて、「現代」を「キリスト者」としてどう捉え「生き」ていくか、という壮大な命題に向き合えるのではないだろうか。

2007 浦和教会報「シャーローム」寄稿



 聞き取り3年目を迎えて

 私たちが北区(東京都)にVOICE「被爆体験を語り継ぎ、核兵器の使用を許さない北区青年の会」を立ち上げ、聞き取り活動を始めてから3年。この間、北区内外から30人を超える青年が参加し、ある時は自宅を訪ね、ある時は広い会場に被爆者をお招きして、延べ26人の方々から体験を聞き取ってきました。そのうちすでに、3人の方が亡くなられています。

 聞き取りを始めた当初は、(広島・長崎から遠く離れた東京の)こんな身近に被爆者がたくさんいるということが一番の驚きでした。そして、被爆した状況や被害の度合い、年齢、立場、差別の有無、その後の境遇など、被爆の実相は実に様々であるということにも改めて気づかされました。しかし、にもかかわらず誰もが口をそろえて言うのは、二度と戦争をしてはならない、二度と同じ苦しみを味わわせたくないという切なる願いです。
 私が聞き取りをしながら常に念頭に置いているのは、直接体験していない私たちには、当事者の苦しみ、悲しみなど到底理解できるものではないということです。被爆者は言います。「おうとらん者には分からん」「口でしゃべろうったって、しゃべりきれん」。本当にその通りです。しかし、だからこそ今、辛い体験を思い出させるのは申し訳ないと思いながらも、謙虚に耳を傾けなければと思うのです。被爆者が目にした無惨な光景、燃え盛る炎、耳にした爆音や呻き。臭い、熱さ、痛みなど、全て理解はできなくとも、想像することぐらいはできるはずです。

 結成から三年経った今、私たちの活動は一つの岐路を迎えています。始まりは原爆の問題でしたが、知れば知るほどそれは、戦争の本質、加害の実態、戦争責任、靖国、憲法、天皇制、原発、劣化ウラン、格差社会、米軍基地、安全保障、社会保障など、あらゆる問題とつながっていることが分かってきました。被爆者の問題を、ただそれだけの問題として考えるのは不可能なのです。私たちがやろうとしている、またやるべきことは、「被爆体験」という一つのファクターを通して、人類の教訓として後世に何を遺していけるかということを、自ら考えそれを創り上げていくことなのだと思います。VOICEでは、被爆体験の聞き取りに加え、靖国神社の見学や元特攻隊員の証言を聞く試みなど、新たに活動の幅を広げようと計画しています。

 被爆者がいつか語れなくなってしまった時、自分の言葉で何が語れるかを考えながら、引き続き平和のために行動していきたいと思っています。

2006.11.1 「平和運動」11月号(日本平和委員会発行)寄稿



 「正しい」日本語?

 最近の「正しい」日本語「ブーム」にひと言。日本語の今と昔の使い方比べに躍起になる一方で、その「違い」に目くじらを立てて、文化としての「生きた」言語の可能性を踏みにじってはいないだろうか。現在「正しい」とされている日本語だって、大昔は通用しなかったに違いない。言語は、それを使用する人々が長い年月をかけて新たな意味合いと解釈を付け加えながら使いこなしていくことで、初めて言語たり得る。新しく生み出されてくる言葉は、果たして「間違い」なのだろうか。番組上の造語など、そもそも批判の対象になるのだろうか。

 「間違い」に関する一連の指摘には、「最近の若いモンは…」的な発想が見え隠れしている気がしてならない。投書欄でも「若者」批判をよく目にするが、町を歩いていると中年オジサン、オバサン連中の方がよっぽど自己中心的でマナーが悪い。

 教育現場に身を置きながら、ダジャレやパロディなど、子どもたちが次々と生み出す言葉「遊び」には感心させられることさえある。もちろん、誤った用法や文法は訂正する必要がある。昔の用法や語源を知っておくことは、新しい言葉を使う上でも必要なことで、語彙を豊かにするために欠かせない。しかし、今の用法が「正しい」か「正しくない」かよりも、なぜそのような使われ方をしているのか、若者がそうした言葉を使う背景には何があるのか、の方が大事ではないだろうか。行き過ぎた「言葉狩り」のようなことをしてはならない。

2005.1.12



 キリスト者として抗う

 かつて日本の教会は、「報国」の名のもとに侵略戦争に荷担した。讃美歌で「君が代」を歌い、戦闘機の「献金」を募り、統治下の朝鮮では同じキリスト教徒に神社参拝を強要した。無論、当時のクリスチャンもその一翼を担った。現代を生きる私たちは、その罪を償える立場でもなければ、糾弾できる資格もない。しかし、過去の反省と教訓から学ぶ責任はある。

 「正義」を標榜する一大国の横暴な振る舞いによって、イラクでの占領が続けられている。その先頭に立つ大統領も「自称」クリスチャン。曰く「罪のない国民の命や意思は尊重しつつ、最低限の破壊で『悪の枢軸』の無法を止めさせ、歴史を正しい方向に導く責任がある」。およそ、どんなキリスト教の聖書解釈からも生まれ得ない論理。そして、それを無条件に支持する某国政府。その「軍隊」までも、「国際貢献」という美名のもと、今なお戦闘の続く地域へ派遣し続けている。

 この間、映画『華氏911』や『にがい涙の大地から』の上映会、被爆者や元軍人から証言を聞く活動を通して、改めて気づかされたのは、「慰安婦」や「少年兵」、「強制連行」や「遺棄兵器」の問題など、あらゆる戦争において、実際に傷つき殺されるのは、大義や国益とはほとんど無縁の一般市民だということ。イラクでは、原爆をはるかに上回る放射能を含んだ劣化ウラン弾によって、子どもたちが無残な最期を遂げている。かつて中国で行われたような掃討作戦によって、非戦闘員が次々に虐殺されている。かの大国の軍隊が我が国に駐留している限り、そして私たちの血税がその軍隊を「思いや」るため、湯水のごとく使われている限り、その小さな命に手を下しているのは私たち一人一人である。

 首都では、「憲法を命がけで破る」と豪語する首長が都民の代表として選ばれ、「日の丸・君が代」を用いた式典を、「強制はしない」が、当然の職務として遂行させるという。「心の教育」が必要だと、教育基本法の「改正」が画策され、「愛国心を育む」教科書が出回っている。

 クリスチャンであろうとなかろうと、個人の尊厳を軽んじる動向には異を唱えなければならない。しかし、この国の歴史を背負う一教会員として、そして天に国籍をもつ一信徒として、ナショナリズムの台頭には抗う義務がある。私たちが誇るべきは、「日本人であること」や「大和魂」ではない。畏れ敬うるべきは、「大自然」や「先祖の営み」や、まして「英霊」などではない。私たちはどんな大義があろうと、「もはや戦うことを学」んではならない。そして、神の怒りから逃れ、真の「主にある平和」を実現するために、弱く小さな私たちにもできる「応答」を模索しなければならない。差し当たって私にできることは、真実を「知る」ための弛まぬ努力と、神が歴史を握っておられることを信じ、「祈る」ことである。

 そして、教会が「祭司」として立つことと、世界に平和の基を築くこと。今この2つの課題を前に、共通の、そして緊急の課題は、「信仰」と「知」の次世代への継承ではないだろうか。

2005.5.18 日本軍「慰安婦」問題と取り組む会 「にゅうす」寄稿

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