マスコミ時代



 今そこにあるリアリティ

 そもそも「リアリティ」とは何なのか。氾濫する情報により虚構と現実が混在し、人の生き死にですら「リアリティ」を失いかけているように見える今日にあって、その意味を解するのは難しい。若い世代は、アイデンティティに乏しい自分の存在を保持するために、「トモダチ」づくりに精を出し、広く浅い「付き合い」に執着する。自分の存在価値を認めたくて、没頭できる何かを渇望している。
 この際、辞書的な意味は置いておくとして、「リアリティ」の欠いた状態とはどんな様子をいうのだろうか。ゼミの問題に限って言えば、生活実感としてわからない、内実がともなわない、または現実味が希薄で、実状にそぐわないといった意味になる。さらに言えば、生活実態や行動が理論や学習とまったく乖離している状態ということになるだろう。つまりこの問題では、「リアリティ」の欠落した形式的「正義」や形骸化した「自治」の欺瞞性に、疑問符が突き付けられているのである。
 ゼミにおける文献学習は、決してそれ自体「目的」ではない。互いに成長するための「学び」の一「手段」でしかない。だから決められたマニュアルなんかないし、唯一正しいゼミの在り方などないのである。ただ、その時々の構成員(もちろん教授陣も含む)による「リアル」な要求に基づいて運営されれているかどうか、ゼミ時間外の場でもそれが意識されているかどうかについては、常に点検する努力が惜しまれてはならない。必要なのは、こ難しい文献を読んで「分かったつもり」になることではなく、社会的運動に身を投じて「社会の役に立ったつもり」になることでもない。それじゃ、教科書に何色もの色ペンで手当たりしだい線をひっぱり、「覚えたつもり」になっている中学生と何ら変わらない。いくら形の整った美しいものであっても、それを「リアリティ」がある状態とは呼べないのである。
 それは、「ロドス島では跳べた」と主張する者が、今ここで跳べなければ意味がないということであり、一番近くにいる「隣人」を大事にできない者が、世の「万人」を助けることなどできないということであり、自分の生活において「自律的」でない者が、集団の中にあって「自治的」ではありえないということである。
 こうして見ると、「リアリティ」を追求するうえで、「自分の頭で」考え「自分の言葉で」表現するということが、ことのほか大事なように思えてくる。かつて研究室にも置いてあったある著書の中に、こんな文章があった。本文は、無気力に過ごし漠然とした不安を抱える中で、「自分らしさ」を求めて社会運動に携わるようになったある高校生について紹介している。

「しゃべったり動いたりしても、それが自分の言葉なのか、他人からの役割期待に応えよ うとして演じてる、ある種の他人の言葉なのかわからなくなることがある。そんな思い に妙にこだわり違和感を感じるようになった。何々すべきだともっともらしく振る舞う 自分には嫌悪感を感じてしまう」
「(彼女は)自分の生活実感にこだわってことばを選ぶ。多くの人の前で話すときも、請 われて文章を綴るときも。今日の若者たちは、自らの生活の中から『自分のことば』で 自分たちの日常を批判的に見つめ直し、自分たち自身の感性に正直になって自分たちの 美的センスに基づきモノとヒト、ヒトとヒトとの新しい関係を築きながら手触りのある自己像をつかみたいと思い出しているのかもしれない」
佐藤洋作「『自分探し』の長い旅」より

 「リアリティ」のない学習が何の力も持たないのと同様に、「リアリティ」を欠いた空虚な言葉は説得力を持たない。難解な文献や問題も、「自分のことば」に置き換え解釈することによって、初めて「自分のもの」となり、力となる。
 では、なぜ「リアリティ」を見失っているのか。この問いこそ、いま最も「リアリティ」のある私たちの課題なのかもしれない。
(1999.6.23「KNOSPEN」より)



 同期あれこれ人間模様

 ついでに、近況報告のつづきなどを…。
 相も変わらず、テレビ局の裏側で雑用をこなす日々なのだが、今日はちょっと仕事を離れて同期の話をしてみよう。
 同じ会社の同期生は、一人暮らしの自分以外は自宅から通っている人が多い。それが関係しているかどうかは別にしても、はっきり言って「幼い」。まぁ、何をもって「大人」というかは非常に微妙な問題なのだが、彼らと付き合いながらその条件となるようなものをいろいろと考えてみた。未だ結論は出ていないが、今のところ以下の3つが挙げられそうな気がしている。

 ・「場の空気をよむ力」       
 ・「親しき仲にあっての礼儀」    
 ・「公と私の区別」


 要は、大人としての付き合いができるかどうかということ。決して自分が常識的な「大人」だなどと偉ぶるつもりはないし、個人の価値基準を押しつけるつもりは毛頭ないんだけど、「もう社会人なんだし、せめてそのぐらいは分かってよ」という部分がなかなか伝わらなかったりして、いらだちを覚えることもある。
 ついでに出た結論。人間性や人生の価値を考えるうえでは、大学名などほとんど関係ないということ(当たり前か…)。有名大学に入った人々は、人間の持つ数ある能力のなかの一つでしかない「受験勉強をする能力」にやや長けていたというだけであって、それ以上でもそれ以下でもない(ただ、社会的常識や一般的教養を身につけやすい恵まれた環境にあったことだけは確かだろう)。社会生活を営み、この世を生きていくうえで、もっともっと大切な能力が他にある(「だから勉強なんかできなくたっていいんだ」というのは詭弁)。…にも関わらず、会社側の採用する人間は名のある大学の学生に限られるという実状は、どう考えてもおかしい。この間、身をもってそれを知ることができた。
 つい数ヵ月前、自分の追い出しコンパで、ばか騒ぎを楽しめる一年生と自分のわずか数年前までの姿を重ねて、自分の「若さ」とか「馬鹿さ」加減を知ったばかりであったので、なおさら納得できてしまった。 社会人になるうえで、正常な人間関係をつくるという要素は想像以上に重要なもののようだ。

(1999.6.23「KNOSPEN」より)



 社会人という人種

 今もし仮に、とある誰かから「あなたはなに人ですか?」と聞かれたら、迷わずこう答えるだろう。「僕は社会人です」。そのぐらい、今の自分にとって「社会人」という属性は、「日本人」以上に大きな意味をもつものとなっている。
 「社会人一年生」というひと言に含まれる意味は計り知れない。というのは、学生との間にある境界線があまりに大きいのである。たしかに、実生活的にはあまり変化はないように思われる。外見もスーツさえ着なければ、一見何の見分けもつかない。しかし、その 内実はまったく異質であり、まさに「人種」を違えるほどのものなのである。
 まず学生との決定的な違いは、やはり自分で働いて自分で稼ぐということだろう。当たり前のようではあるが、同じ稼ぐにしても、課せられる責任の重さや給料の額からしてアルバイトとはワケが違う。僕も先月、初任給というものを手にしたわけだが、その時もお金の「重み」の違いに気づかされたものだ。全て自分の責任と力量において仕事をし、それに対して得られる報酬を、全て自分の生活のために費やす。「生きている実感」とは、実はこういうところにあるのかもしれない。学生の時分などは、一人暮らしをしただけで自立したつもりになっていたが、一人でお金を稼いで一人で生活をするということは、案外そうとうに「大したこと」なのである。いくら「たりぃから」と言っても、学校と違って会社はフケるわけにはいかないのだ。しかも、学生はたとえ一人暮らしであれ、すべて親の恩恵によって生活している。無論、社会人になったからといって親の恩恵から一切解放されるかといえばそうではないが、「社会人」としての一ケ月目とは、金銭的に誰にも頼らずに生きられる初めての瞬間なのである。そんなことすら気づいていなかったことに、いまさらながら恥ずかしさを覚える。
 一方、「社会人」としての負の違いもある。学生と違って「社会人」は、目先の目標が見えずらい。卒論もなければ、試験もない。就職活動ももうしない。何かに追われて勉強する必要もない。これまでは、「さしあたり」の目標がいつでも目の前に転がっていたのに、それが急に無くなってしまう。とりあえず仕事に就いてしまえば、あとは時間だけが過ぎていってくれるから、毎日を消化し、それなりにこなしていればいい。優秀なエリートが頂点に登りつめた途端、自ら死んでしまうというのも分かるような気がする。そんな妙な不安感を覚えることも、大きな特徴かもしれない。
 ここら辺のことについては、職種によってもかなり違いはあると思うので、同じく社会人になりたての諸氏にもぜひ意見を聞きたいところではある。

(1999.5.12「KNOSPEN」より)


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